私はそういうことには疎いほうなのだが私は来年厄年ではないだろうか?
ちょっと前までお払いとかそういうものに全く興味のなかった私である。
車を買うときもしたことないし・・・。
七五三もしてもらった覚えがない。
まぁ、それは、美幸ちゃんと私は父がとびきり若い時の子供だから経済的にいろいろ大変だったと思われるため、別に恨みはない。
もしや生まれたときのお宮参りもしてないのではと思い、今イチコに確認したらやっぱりしていないらしい。
ということは私はたぶん今までにお払いとかそういう類のことは一切していないことになる。
もうこれは興味がないとかそういう問題ではない。
1回もお払いをしていなくてもこんなに毎日を楽勝気分でHappyに生きているのだから必要ないのではないかと思えるのだが、年が明けたら厄払いに行こうと思っているのだ。
年をとってくると昔からの風習を大事にしたいという気持ちが芽生えてくるし、それに父が亡くなったのは美幸ちゃんの厄年だったのだ。
今度は私の厄でイチコに死なれちゃかなわんのだ。
美幸ちゃんの厄の犠牲になって父が死んだとは思わないが(なぜなら父の死によりダメージを受けたのは明らかに美幸ちゃんよりも私のほうだったからだ)、でも少しでもイチコが死ぬ可能性は消しておきたい。
気休め程度にはなるだろう。
イチコに死なれちゃかなわん。
ちょっと前までお払いとかそういうものに全く興味のなかった私である。
車を買うときもしたことないし・・・。
七五三もしてもらった覚えがない。
まぁ、それは、美幸ちゃんと私は父がとびきり若い時の子供だから経済的にいろいろ大変だったと思われるため、別に恨みはない。
もしや生まれたときのお宮参りもしてないのではと思い、今イチコに確認したらやっぱりしていないらしい。
ということは私はたぶん今までにお払いとかそういう類のことは一切していないことになる。
もうこれは興味がないとかそういう問題ではない。
1回もお払いをしていなくてもこんなに毎日を楽勝気分でHappyに生きているのだから必要ないのではないかと思えるのだが、年が明けたら厄払いに行こうと思っているのだ。
年をとってくると昔からの風習を大事にしたいという気持ちが芽生えてくるし、それに父が亡くなったのは美幸ちゃんの厄年だったのだ。
今度は私の厄でイチコに死なれちゃかなわんのだ。
美幸ちゃんの厄の犠牲になって父が死んだとは思わないが(なぜなら父の死によりダメージを受けたのは明らかに美幸ちゃんよりも私のほうだったからだ)、でも少しでもイチコが死ぬ可能性は消しておきたい。
気休め程度にはなるだろう。
イチコに死なれちゃかなわん。
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なんで履いてんのぉー
2000年10月25日 家族今日は明日から始まる周年セールの準備であった。
メッチャメチャ忙しかったのである。
本当に一日中働き詰めに働いて疲れ果てて、やれやれと帰宅するとイチコがごろりと横になっていた。
その姿を見て私は飛び上がった。
「!!!!!!」
イチコはIGGYのニューオリンズみやげのTシャツを着ていたのである。
ブラックボトムが2度目にニューオリンズに行ったときメンバーがひとつずつおみやげを買ってきてくれて、FCでプレゼント企画があってそれに当選したのである。
私はそれを1度も着ずに大切に大切に保管していたのである。
サイズがあまりにも小さくて着れなかったというのもあるが。
でもさー、1回もおろしてないのを勝手に盗って着る?
私は「なんなーん!!IGGYのニューオリンズのおみやげのTシャツなのになんで勝手に着るん!まだ一回も着てなくって大事にしちょったのにー!!!」と説明的な台詞を吐きながら怒った。
イチコは私の説明を聞き、さすがに「しまった」と思ったようである。
しかし、自分が悪いと思えば思うほど謝らない女なのである。
私にTシャツを剥ぎ取られブラ一丁で震えつつも「もう、どれを着たらええかさっぱりわからん。」と最後の抵抗を試みていた。
アンタは自分で買った覚えのある服だけを着ていたらいいのである。
カンタンな話ではないか。
でも、もう私はそれ以上は言わなかった。
本当にショックだったのだ。
ちょっと前の本だしのCMで母親に自分が探していた靴下を履かれて「なんで履いてんのぉー」と笑っていた田中麗奈は大人だと思う。
メッチャメチャ忙しかったのである。
本当に一日中働き詰めに働いて疲れ果てて、やれやれと帰宅するとイチコがごろりと横になっていた。
その姿を見て私は飛び上がった。
「!!!!!!」
イチコはIGGYのニューオリンズみやげのTシャツを着ていたのである。
ブラックボトムが2度目にニューオリンズに行ったときメンバーがひとつずつおみやげを買ってきてくれて、FCでプレゼント企画があってそれに当選したのである。
私はそれを1度も着ずに大切に大切に保管していたのである。
サイズがあまりにも小さくて着れなかったというのもあるが。
でもさー、1回もおろしてないのを勝手に盗って着る?
私は「なんなーん!!IGGYのニューオリンズのおみやげのTシャツなのになんで勝手に着るん!まだ一回も着てなくって大事にしちょったのにー!!!」と説明的な台詞を吐きながら怒った。
イチコは私の説明を聞き、さすがに「しまった」と思ったようである。
しかし、自分が悪いと思えば思うほど謝らない女なのである。
私にTシャツを剥ぎ取られブラ一丁で震えつつも「もう、どれを着たらええかさっぱりわからん。」と最後の抵抗を試みていた。
アンタは自分で買った覚えのある服だけを着ていたらいいのである。
カンタンな話ではないか。
でも、もう私はそれ以上は言わなかった。
本当にショックだったのだ。
ちょっと前の本だしのCMで母親に自分が探していた靴下を履かれて「なんで履いてんのぉー」と笑っていた田中麗奈は大人だと思う。
去年の10月16日の昼過ぎ頃から、いきなり猛烈な悲しみが私を襲ってきた。
まるでカチャッとチャンネルがかわったかのように、それはあからさまであった。
じっとしているとウッと苦しくなり、いつもいつもどこかに閉じ込められているような閉塞感があった。
昼ご飯の時間が特に苦しかった。
ご飯が食べるのが苦しかった。
何を食べても美味しくなく、一口食べてはため息をつくありさまであった。
仕事なんかもちろん手につかなかった。
物欲もなく、買い物をする気も起きなかった。
TVを見ても面白くない。
ニュースで少年犯罪や世知辛い事件が報じられるたびに泣いていた。
本を読んでも苦しいばかり。
苦しくて苦しくて、私も父について死にたいとまで思った。
これから自分はどうなるのかと思うと胸が張りさけんばかりだった。
イチコが死んで、美幸ちゃんが死んでひとりぼっちになったらどうしよう。
イチコがボケたらどうしよう。
私も美幸ちゃんもずっと独身だったら、もしイチコが病気になっても充分なことをしてあげられない。
誰でもいいから結婚した方がいいのだろうか。
でも、したくない。
今の会社が私を定年まで雇ってくれるとは思えない。
そしたら私はどうしたらいいの。
今から何か手に職をつけた方がいいのだろうか。
いやそれよりやっぱり結婚しなきゃいけないの?
その頃私はいつも人と自分を比べていた。
そして誰と比べても、自分の方が劣っていると思った。
誰を見ても、その人の親が生きているのかどうかが気になった。
親を失った人を見れば、かたっぱしからどのくらいで元気になれたかを聞きまくった。
家に帰れば父の遺影の前で何本も何本も線香ばかりあげ、イチコや美幸ちゃんに「いつになったら元気になれると思うか」としつこく付きまとっていた。
仕事も手につかないのだが、休みの日もつらかった。
家で一人でいると閉塞感で押しつぶされる。
あてもなくどこまでも歩いてみたり、用事もないのに電車に乗ってみたり、誰かれなく「お父さんが死んで悲しい」と訴えたりした。
トオルともブラックボトムとも、もう逢えないような気がしていた。
何を見ても、何を聞いてもつらいばかりだったその頃、私が一番恐れていたことは、トオルやブラックボトムに逢っても楽しくなかったらどうしようということだった。
1日も早く「心から笑う」ことを思い出したかった。
そんな私に対して周りの人はあまりにも優しかった。
ふだん私が嫌っていた人までが私のことを心配してくれて、今まで本当にごめんなさいというカンジであった。
仕事が手につかなくて何もできなかったとき、当時の私の年下の上司は「誰でも調子が悪いときはあるから、そんなときは僕たちに甘えてくれたらいいですよ。そういうときのために職場の仲間がいて、助け合うように出来ているんだから」と言ってくれた。
とてもありがたかった。
私が元気になったらそのときは恩返しにみんなを助けてあげようと思った。
それから私は周りの人に甘えまくった。
甘えてはいけないと気を張っていつまでも苦しんでいるよりも、周りの人に甘えてでも私が早く元気になることが、周りの人のためにもなると思った。
本当に苦しいのは1ヶ月ぐらいだった。
一日一日薄皮を剥ぐように元気になっていき、今の私は誰と比べてもちょっと負けないぐらい幸せである。
父の葬儀のとき、みんなが言っていた父の長所は
「面倒見がよく、たとえ自分はなくても人のために何かしてあげたいという人だった」ということだった。
それはイチコがよく私と父の共通点としてあげるところである。
父から受け継いだ長所を伸ばすことが、父が死後も生きつづけるということになるのではないかと思う父の一周忌であった。
まるでカチャッとチャンネルがかわったかのように、それはあからさまであった。
じっとしているとウッと苦しくなり、いつもいつもどこかに閉じ込められているような閉塞感があった。
昼ご飯の時間が特に苦しかった。
ご飯が食べるのが苦しかった。
何を食べても美味しくなく、一口食べてはため息をつくありさまであった。
仕事なんかもちろん手につかなかった。
物欲もなく、買い物をする気も起きなかった。
TVを見ても面白くない。
ニュースで少年犯罪や世知辛い事件が報じられるたびに泣いていた。
本を読んでも苦しいばかり。
苦しくて苦しくて、私も父について死にたいとまで思った。
これから自分はどうなるのかと思うと胸が張りさけんばかりだった。
イチコが死んで、美幸ちゃんが死んでひとりぼっちになったらどうしよう。
イチコがボケたらどうしよう。
私も美幸ちゃんもずっと独身だったら、もしイチコが病気になっても充分なことをしてあげられない。
誰でもいいから結婚した方がいいのだろうか。
でも、したくない。
今の会社が私を定年まで雇ってくれるとは思えない。
そしたら私はどうしたらいいの。
今から何か手に職をつけた方がいいのだろうか。
いやそれよりやっぱり結婚しなきゃいけないの?
その頃私はいつも人と自分を比べていた。
そして誰と比べても、自分の方が劣っていると思った。
誰を見ても、その人の親が生きているのかどうかが気になった。
親を失った人を見れば、かたっぱしからどのくらいで元気になれたかを聞きまくった。
家に帰れば父の遺影の前で何本も何本も線香ばかりあげ、イチコや美幸ちゃんに「いつになったら元気になれると思うか」としつこく付きまとっていた。
仕事も手につかないのだが、休みの日もつらかった。
家で一人でいると閉塞感で押しつぶされる。
あてもなくどこまでも歩いてみたり、用事もないのに電車に乗ってみたり、誰かれなく「お父さんが死んで悲しい」と訴えたりした。
トオルともブラックボトムとも、もう逢えないような気がしていた。
何を見ても、何を聞いてもつらいばかりだったその頃、私が一番恐れていたことは、トオルやブラックボトムに逢っても楽しくなかったらどうしようということだった。
1日も早く「心から笑う」ことを思い出したかった。
そんな私に対して周りの人はあまりにも優しかった。
ふだん私が嫌っていた人までが私のことを心配してくれて、今まで本当にごめんなさいというカンジであった。
仕事が手につかなくて何もできなかったとき、当時の私の年下の上司は「誰でも調子が悪いときはあるから、そんなときは僕たちに甘えてくれたらいいですよ。そういうときのために職場の仲間がいて、助け合うように出来ているんだから」と言ってくれた。
とてもありがたかった。
私が元気になったらそのときは恩返しにみんなを助けてあげようと思った。
それから私は周りの人に甘えまくった。
甘えてはいけないと気を張っていつまでも苦しんでいるよりも、周りの人に甘えてでも私が早く元気になることが、周りの人のためにもなると思った。
本当に苦しいのは1ヶ月ぐらいだった。
一日一日薄皮を剥ぐように元気になっていき、今の私は誰と比べてもちょっと負けないぐらい幸せである。
父の葬儀のとき、みんなが言っていた父の長所は
「面倒見がよく、たとえ自分はなくても人のために何かしてあげたいという人だった」ということだった。
それはイチコがよく私と父の共通点としてあげるところである。
父から受け継いだ長所を伸ばすことが、父が死後も生きつづけるということになるのではないかと思う父の一周忌であった。
私の父が亡くなってから今日で一年が過ぎた。
一年前の今日、父は本当に突然亡くなった。
まだたったの51歳だった。
私はその日仕事を早番であがり、翌日のブラックボトムのライヴに備えて、夜行バスで東京に直行する予定だった。
そのためイチコに「行ってきますコール」をして、そのときに父の訃報を聞いたのである。
まさに天国から地獄だった。
ブラックボトムのライヴを楽しむはずだった夜は、父のお通夜となった。
父は私が就職した頃イチコと離婚し、違う人と結婚していた。
そういう複雑さもあり、私は悲しみにくれてばかりもいられなかった。
イチコの立場が微妙なので、葬儀その他にイチコをどこまで立ち入らせるかに一番頭を悩ませた。
結局葬儀には出させたが、骨を拾うのは遠慮させた。
「骨を拾うのはやめとき。」とイチコに告げたときはつらかったが、言わなくてもわかっていたようだった。
イチコはその頃わりと頻繁に父と逢っていて、亡くなる2・3日前にも逢っていたようだから、やはり悲しかったであろう。
遺産の問題もあり、結局私は相続を放棄することになり、法律の本を読んだり、手続きのために家裁に行ったりもした。
その間3週間ぐらい、私はあまりにも気丈であった。
冗談を言う余裕もあったし、悲しいながらも前向きであった。
私の周りの人は、私の元気な様子を見てホッとする反面、父親を亡くしたばかりとは思えぬ明るさを振りまく私に腑に落ちぬものを感じているようでもあった。
それぐらい私は元気だった。
しかし、忘れもしない10月15日、家裁に相続放棄の書類を提出に行き、父の死に関する一連のことがひと段落ついた途端、私の心の糸がプツリと切れ、私は人生最大級の怒涛の悲しみと闘うことになるのである。
<明日につづく>
一年前の今日、父は本当に突然亡くなった。
まだたったの51歳だった。
私はその日仕事を早番であがり、翌日のブラックボトムのライヴに備えて、夜行バスで東京に直行する予定だった。
そのためイチコに「行ってきますコール」をして、そのときに父の訃報を聞いたのである。
まさに天国から地獄だった。
ブラックボトムのライヴを楽しむはずだった夜は、父のお通夜となった。
父は私が就職した頃イチコと離婚し、違う人と結婚していた。
そういう複雑さもあり、私は悲しみにくれてばかりもいられなかった。
イチコの立場が微妙なので、葬儀その他にイチコをどこまで立ち入らせるかに一番頭を悩ませた。
結局葬儀には出させたが、骨を拾うのは遠慮させた。
「骨を拾うのはやめとき。」とイチコに告げたときはつらかったが、言わなくてもわかっていたようだった。
イチコはその頃わりと頻繁に父と逢っていて、亡くなる2・3日前にも逢っていたようだから、やはり悲しかったであろう。
遺産の問題もあり、結局私は相続を放棄することになり、法律の本を読んだり、手続きのために家裁に行ったりもした。
その間3週間ぐらい、私はあまりにも気丈であった。
冗談を言う余裕もあったし、悲しいながらも前向きであった。
私の周りの人は、私の元気な様子を見てホッとする反面、父親を亡くしたばかりとは思えぬ明るさを振りまく私に腑に落ちぬものを感じているようでもあった。
それぐらい私は元気だった。
しかし、忘れもしない10月15日、家裁に相続放棄の書類を提出に行き、父の死に関する一連のことがひと段落ついた途端、私の心の糸がプツリと切れ、私は人生最大級の怒涛の悲しみと闘うことになるのである。
<明日につづく>
私は今朝から旅に出た。
始発で旅立ったので、イチコと美幸ちゃんが散歩がてら駅まで送ってくれた。
そのときに事件は起こった!
イチコが、私をからかうことを目的としてトオルを侮辱する発言をしたのだ。
内容としては、トオルがTVに出ていないから仕事がないというようなことだ。
なんて低俗なことを言うのか・・・。
しかも始末が悪いことにイチコはそんなことを思っていないのだ。
そりゃそうだろう。
娘が年がら年中「トオルが・・・、トオルが・・・」と念仏のように唱えながら右往左往しているのだ。
世間一般の人と比べるとかなりのレベルで、トオル情報をつかんでいるはずだ。
「チェッカーズの大ファンだったけど、藤井兄弟ぐらいしかなかなか行けなくって・・・」というような人よりは確実にトオルの忙しさを知っているのだ。
それなのになぜそんなことを言うのか?
理由は一つである。
前述の通り、彼女の意図は私をからかうことのみなのだ。
心からそう思っているならば、私は言葉を尽くして説明するであろう。
納得させる自信はある。
でもそうではないから私はものすごくストレートに怒った。
「どう思っても勝手だけど、なんでわざわざそんなことを私に言うんか!そんなことを言われて私が喜ぶと思う!?」
イチコは「あんたの気持ちは知らんいね。」と言ってそっぽを向いた。
なんてふてぶてしいババアかと皆さんは思うだろう。
これまた親子にしかわからない難しい話なのだが、イチコがこういう言い方をするときは実際かなり反省しているときだ。
反省しているときこそ絶対に謝らない。
私はイチコと美幸ちゃんをふりきって駅へ向かった。
何年か前、同じことがあって、そのときイチコは私から「半年間無視の刑」を受けた。
でも、もう同じことはできないのだ。
なぜなら私は去年父を亡くしたとき、これからはイチコのことを大切にしようと決めて、私なりに実行していたからだ。
しかしこれは例外ではないかと思った。
私に対してトオルのことを侮辱するざなんざタブー中のタブーだ。
親子といえども仁義に反する。
そんなことを考えていると電車の中でもどんどんどんどん涙が出てきた。
結果的にはイチコは無罪となった。
やっぱり私にとって父の死はすごいインパクトを持つ出来事であったようだ。
イチコは父に感謝すべきである。
始発で旅立ったので、イチコと美幸ちゃんが散歩がてら駅まで送ってくれた。
そのときに事件は起こった!
イチコが、私をからかうことを目的としてトオルを侮辱する発言をしたのだ。
内容としては、トオルがTVに出ていないから仕事がないというようなことだ。
なんて低俗なことを言うのか・・・。
しかも始末が悪いことにイチコはそんなことを思っていないのだ。
そりゃそうだろう。
娘が年がら年中「トオルが・・・、トオルが・・・」と念仏のように唱えながら右往左往しているのだ。
世間一般の人と比べるとかなりのレベルで、トオル情報をつかんでいるはずだ。
「チェッカーズの大ファンだったけど、藤井兄弟ぐらいしかなかなか行けなくって・・・」というような人よりは確実にトオルの忙しさを知っているのだ。
それなのになぜそんなことを言うのか?
理由は一つである。
前述の通り、彼女の意図は私をからかうことのみなのだ。
心からそう思っているならば、私は言葉を尽くして説明するであろう。
納得させる自信はある。
でもそうではないから私はものすごくストレートに怒った。
「どう思っても勝手だけど、なんでわざわざそんなことを私に言うんか!そんなことを言われて私が喜ぶと思う!?」
イチコは「あんたの気持ちは知らんいね。」と言ってそっぽを向いた。
なんてふてぶてしいババアかと皆さんは思うだろう。
これまた親子にしかわからない難しい話なのだが、イチコがこういう言い方をするときは実際かなり反省しているときだ。
反省しているときこそ絶対に謝らない。
私はイチコと美幸ちゃんをふりきって駅へ向かった。
何年か前、同じことがあって、そのときイチコは私から「半年間無視の刑」を受けた。
でも、もう同じことはできないのだ。
なぜなら私は去年父を亡くしたとき、これからはイチコのことを大切にしようと決めて、私なりに実行していたからだ。
しかしこれは例外ではないかと思った。
私に対してトオルのことを侮辱するざなんざタブー中のタブーだ。
親子といえども仁義に反する。
そんなことを考えていると電車の中でもどんどんどんどん涙が出てきた。
結果的にはイチコは無罪となった。
やっぱり私にとって父の死はすごいインパクトを持つ出来事であったようだ。
イチコは父に感謝すべきである。
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今日の晩ご飯はカレーであった。
美幸ちゃん(姉)の作るカレーはとてもおいしい。
今日のカレーもとてもおいしかった。
おかわりまでしてしまった。
だがしかし、ここに来るまでには長く厳しい道のりがあったのだ。
もともと美幸ちゃんの作るカレーはうまかったのだが、美幸ちゃんはとても研究熱心でいろいろな工夫をする。
こういう隠し味がいいとか聞くとすぐに試す。
そして彼女は限度を知らない。
「仕上がりに一味をひとふりするとプロっぽい味になる」と聞くともちろん試す。
しかしもちろんひとふりではない。
でも、それが辛い物好きな私にはなかなかうまかった。
次からカレーを作るたびに一味の量は増えつづけ、もはや「隠し」味という範疇を大きく超えていた。
次はどこで覚えたのかキャベツを入れることを覚えた。
最初はなんだか新鮮な気がしたが、これまた大量にいれるので、キャベツの甘味が出て感じが悪いことになっていった。
次はトマトホールを入れ始めた。
これは私は最初から反対の立場をとっていたのだが、それをはっきりいうことは許されない。
美幸ちゃんはおとなしくて温厚な性格で通っているが、本当は大の「御意見無用女」なのだ。
批判はもちろんのこと、「ここをこうしたらもっと良くなる」というような「ご意見」さえ、口にしたら「わかった。そうする。もういい。」と言ってふてくされる。
そしてかならずそうしない。
なんともいいがいのない話なのだ。
だから私はこの時も「入れんほうがいいのにな」と思っていた。
言っておくが味は悪くないのだ。
このトマトホールに関しては、私の個人的な好みで嫌なのだ。
しかし、そうもいってられない事態が発生した。
やはり美幸ちゃんはエスカレートしていき、しまいにはカレーだかハヤシライスだかわからないカンジまでいってしまった。
そこに至ってもまだ、「美幸ちゃんのカレーはおいしい」というのが我が家の定説なので、美幸ちゃんはよく「今日はカレーよ」と、歓喜を促す意味として宣言していた。
私は内心「あれかぁ」と思いつつも「わーい」などと言っていた。
そしてそういうカレー変遷期を経て、最近また基本のカレーに戻ったのだ。
私のささやかな幸せが帰ってきた。
今日のカレーもとてもおいしかった。
強いていえばもう少し辛さが欲しいところだがそんなことを言ってまたヘンな隠し味に凝られても困る。
私には今夜のカレーで充分だ。
美幸ちゃん(姉)の作るカレーはとてもおいしい。
今日のカレーもとてもおいしかった。
おかわりまでしてしまった。
だがしかし、ここに来るまでには長く厳しい道のりがあったのだ。
もともと美幸ちゃんの作るカレーはうまかったのだが、美幸ちゃんはとても研究熱心でいろいろな工夫をする。
こういう隠し味がいいとか聞くとすぐに試す。
そして彼女は限度を知らない。
「仕上がりに一味をひとふりするとプロっぽい味になる」と聞くともちろん試す。
しかしもちろんひとふりではない。
でも、それが辛い物好きな私にはなかなかうまかった。
次からカレーを作るたびに一味の量は増えつづけ、もはや「隠し」味という範疇を大きく超えていた。
次はどこで覚えたのかキャベツを入れることを覚えた。
最初はなんだか新鮮な気がしたが、これまた大量にいれるので、キャベツの甘味が出て感じが悪いことになっていった。
次はトマトホールを入れ始めた。
これは私は最初から反対の立場をとっていたのだが、それをはっきりいうことは許されない。
美幸ちゃんはおとなしくて温厚な性格で通っているが、本当は大の「御意見無用女」なのだ。
批判はもちろんのこと、「ここをこうしたらもっと良くなる」というような「ご意見」さえ、口にしたら「わかった。そうする。もういい。」と言ってふてくされる。
そしてかならずそうしない。
なんともいいがいのない話なのだ。
だから私はこの時も「入れんほうがいいのにな」と思っていた。
言っておくが味は悪くないのだ。
このトマトホールに関しては、私の個人的な好みで嫌なのだ。
しかし、そうもいってられない事態が発生した。
やはり美幸ちゃんはエスカレートしていき、しまいにはカレーだかハヤシライスだかわからないカンジまでいってしまった。
そこに至ってもまだ、「美幸ちゃんのカレーはおいしい」というのが我が家の定説なので、美幸ちゃんはよく「今日はカレーよ」と、歓喜を促す意味として宣言していた。
私は内心「あれかぁ」と思いつつも「わーい」などと言っていた。
そしてそういうカレー変遷期を経て、最近また基本のカレーに戻ったのだ。
私のささやかな幸せが帰ってきた。
今日のカレーもとてもおいしかった。
強いていえばもう少し辛さが欲しいところだがそんなことを言ってまたヘンな隠し味に凝られても困る。
私には今夜のカレーで充分だ。
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