普通の人?

2005年2月4日
Kさんという60代後半の患者さんが入院してきたときは、それはそれはすごかった。
見た目もちょっとマフィアっぽくドン・Kといったカンジの風情で、集中治療室にいたときから真っ黒のサングラスを離さなかった。
看護婦さんがはずしていてもいつの間にかまたかけている。
絶対安静状態でベッドを30度傾けるまでしか許されない状況なのに、自分は元気だと言い張り(Kさんの実感としては今は痛くも痒くもなく元気なのだろうが)、目を離すと座ったり歩いたりしていて、注意すると逆ギレする。
オムツをされることが屈辱的らしく、オムツを替えるたびに「死ね!」だの「人のウンコばかり見たがるウンコ女!」だの暴言を吐きまくるので、私はてっきりKさんは元々横暴な人なのだと思っていた。
しかし、それらの行為はKさんの急性ボケの一環だったのだ。
入院3日目で集中治療室を出てから、Kさんは単なる横暴な人の域を超えた行為に走り始めた。
点滴をブッちぎり、バルンカテーテルを引き抜き、心電図のモニターを引きちぎり、自分についている医療器具を全部取っ払ってもまだ足りず、病衣を脱ぎ、オムツをはずし、自分の歯を抜くわ、髪の毛を引っこ抜くわ、もはや自分に元からついていたものか、病院でつけられたものかすらわからなくなっているようであった。
言うことももちろんおかしい。
私は毎日頻繁にKさんの病室をのぞいて声をかけては「まだおかしい」と確認していた。
しかし、私が夜勤明けと休みでたった3日空けている間に、Kさんは普通の人になっていた。
病衣から自分のイブサンローランのパジャマに着替え、オムツも取れて、髪もピシッとセットされている。
ベートーベンのように髪を振り乱していた姿とはまるで別人のようである。
「おはようございます。あ、自分のパジャマに着替えられたんですね」と言いながらお茶を入れる私に、Kさんは「いつもお世話になります」と言って静かに頭を下げたのだ。
本当のKさんはとてもジェントルマンで、おしゃれな人で、体を動かせるようになってからはいつも身奇麗にして、食事を持っていっても、お部屋の掃除をしても「ありがとう」の言葉を欠かさない人であった。
うれしいことだが、なぜか私はこういうとき一抹の寂しさも覚えてしまう。
私と入れ替わりにKさんの病室に入った看護婦さんの「あらー、Kさん、今日もまたおしゃれなパジャマ着てー。ああ、とうとうKさんも普通の人になってしまったねぇ」と言う声を後ろに聞き、振り返ると、そこには急性ボケ時代の自分を覚えているのかいないのか、恥ずかしそうに頭をかくKさんの姿があった。

コメント