ある水中浴の日のことである。
その日も奥さんがついて来られて、「肌着は昨日替えたばっかりだから今日はいい」とか、「ティッシュの箱はこっちに置いて」とあれこれ指示をされていた。
病室用のベッドから、水中浴用のベッドへ「せーの!」の掛け声でT中さんを移し体を洗う。
T中さんは体を洗われることもあまり好きではないらしく、手を振って「早く浴槽につけてくれ」と主張する。
すると奥さんがバスサイド(洗い担当者以外は、洗っているときはプールでいうプールサイドのような一段高いところで待機している)から、「まだまだ!きれいに洗ってもらってからじゃないと湯船に浸かれんよ」と檄を飛ばす。
まったくいつもと同じT中さんの入浴風景であった。
しかし、体を洗い、浴槽に浸かり、また「せーの!」でT中さんを病室用のベッドに移した直後に、いつもと違うことが起きた。
T中さんが奥さんの腕を取り、唐突に「スキ」と書いたのだ。
みんなが「まあー、T中さん、奥さんとラブラブじゃね」と冷やかし、奥さんも驚きつつも「今になってそんなこと言われたって全然うれしくないね」と言っていたが、私は泣いてしまった。
私はよく泣くが、病院では極力泣かないように心がけている。
泣きたいことが多すぎて、いちいち泣いていては仕事にならないし、同僚は皆そういうことに鈍感になっていて、悲しいことや感動的なことも全部さらりと流しているのだ。
だから私も患者さんに「いつもありがとう。娘が遠くに住んでるからあまり来てくれないけど、アンタがよくしてくれるから私は何とかやっていける」などと言われるときも、透析患者さんで、水分制限のある患者さんから「お茶をもう少したくさん入れて。他の人は『看護婦さんに内緒よ』って言って多めに入れてくれるよ。ケチなのはアンタだけ」と言われ、患者さんの体のことを考えているから制限を守っていることをわかってもらえなくて悲しいときも(透析患者さんが水分を摂りすぎると透析がきつくなるのだ)、その場では涙を見せずにやり過ごしていた私だが、この「スキ」はたまらなかった。
今みんなの前で、このタイミングで「スキ」と書いたT中さんの心の動きを想像すると泣けて泣けて仕方がなかった。
やっぱり同僚には異様な目で見られてしまったが、でも私はやっぱり人の気持ちに対して鈍感にはなりたくないのだ。

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