寵愛を賜る
2001年11月18日セブンイレブンのお客さんで、私にやたら親切なおばあさんがいた。
レジでお菓子を買って金銭授受がすむと「はい」と買ったお菓子を私にくれたりするのだ。
明らかに用事もないのに私に会いに来ているようであった。
思いがけずもらったりするとうれしいのだが、レジを打っているときから「きっとこれは私にくれるんだろうな―」とわかってしまうのがつらい。
そして案の定「はい」と差し出されるたびに「えっ」と驚いたフリをするのもつらい。
だからといってまだくれるとも言わないうちに「これ、私に下さるつもりで買われるんだったら、ホントにいいんですよ」とか、ましてや「それだったらむしろこっちのお菓子の方が好きなんですけど」なんて言えるはずがない。
私はそのおばあちゃんが来るのがちょっとだけ負担になっていた。
ふと、ああ、IGGYもこういう気持ちなのかなと思ってしまうのもイヤだった。
しかし、そのおばあさんはどうやら単なるデブ専だったらしい。
私よりももっと太ったモモちゃんが入ってくるなりさっそくモモちゃんに鞍替えしたのだ。
もう私には見向きもしない。
私をかわいがっていた時よりももっとすごい勢いでモモちゃんをかわいがりはじめ、モモちゃんに菓子を買い与え始めた。
モモちゃんもお菓子をくれることはやはり少し負担に感じているようだが、かわいがってもらっていることに対しては素直に喜んでいる。
ちょっとおばあちゃんが来ないと「おばあちゃん最近来ませんねえ」と心配しているし、甘い菓子が好きではないのでスナック菓子をくれたらいいのにななどと言っている。
前はおばあちゃんの寵愛は私が賜っていたのになと思うとちょっと複雑だが、あの、くれるとわかっているお菓子のレジを打つ気の重さに比べたら断然楽である。
だが、今日は私のレジで打ったお菓子に「シールを貼って」と言って、さっとモモちゃんのところに行き、制服のポケットに忍ばせていた。
さすがにこの転落っぷりにはショックを禁じえなかった。
一心に寵愛を受けていた私が、今はただのレジを打つ女に成り下がったなんて。
屈辱である。
レジでお菓子を買って金銭授受がすむと「はい」と買ったお菓子を私にくれたりするのだ。
明らかに用事もないのに私に会いに来ているようであった。
思いがけずもらったりするとうれしいのだが、レジを打っているときから「きっとこれは私にくれるんだろうな―」とわかってしまうのがつらい。
そして案の定「はい」と差し出されるたびに「えっ」と驚いたフリをするのもつらい。
だからといってまだくれるとも言わないうちに「これ、私に下さるつもりで買われるんだったら、ホントにいいんですよ」とか、ましてや「それだったらむしろこっちのお菓子の方が好きなんですけど」なんて言えるはずがない。
私はそのおばあちゃんが来るのがちょっとだけ負担になっていた。
ふと、ああ、IGGYもこういう気持ちなのかなと思ってしまうのもイヤだった。
しかし、そのおばあさんはどうやら単なるデブ専だったらしい。
私よりももっと太ったモモちゃんが入ってくるなりさっそくモモちゃんに鞍替えしたのだ。
もう私には見向きもしない。
私をかわいがっていた時よりももっとすごい勢いでモモちゃんをかわいがりはじめ、モモちゃんに菓子を買い与え始めた。
モモちゃんもお菓子をくれることはやはり少し負担に感じているようだが、かわいがってもらっていることに対しては素直に喜んでいる。
ちょっとおばあちゃんが来ないと「おばあちゃん最近来ませんねえ」と心配しているし、甘い菓子が好きではないのでスナック菓子をくれたらいいのにななどと言っている。
前はおばあちゃんの寵愛は私が賜っていたのになと思うとちょっと複雑だが、あの、くれるとわかっているお菓子のレジを打つ気の重さに比べたら断然楽である。
だが、今日は私のレジで打ったお菓子に「シールを貼って」と言って、さっとモモちゃんのところに行き、制服のポケットに忍ばせていた。
さすがにこの転落っぷりにはショックを禁じえなかった。
一心に寵愛を受けていた私が、今はただのレジを打つ女に成り下がったなんて。
屈辱である。
コメント