さよなら沖縄
2001年10月26日宮城くんの店改め、テンザンくんの店を出た私たちは、富士家のぜんざいを食べることも忘れて空港へ向かった。
いよいよさよなら沖縄である。
トイレでビキが鼻血をぶっ放し、心配したりしつつ飛行機に乗りこむ。
帰りは関空ではなく、伊丹空港行きである。
私たちの席はえぐっちゃんの真後ろ。
通路を挟んで斜め前がウタ(私とビキのhttsりょうちゃんの呼び名である。何でウタなのかはあえて秘すが)だった。
httsのメンバーが飛行機に乗りこんできて上の荷物入れに荷物を積んでいた。
楽器を入れようとしてスチュワーデスさんのほうが「楽器大丈夫ですか?」と心配していたが本人達は「大丈夫です」といたって平然としていた。
えぐっちゃんが荷物入れにいれずに持っていた大きめの箱をスチュワーデスさんが見て「そちらは壊れ物ですか?」ときくと、えぐっちゃんがあの笑顔で「あ・・・シーサーです」と答え、そこらに笑いがさざ波のように起こる。
私たちはウタがシートベルトをしてないことに注目し、いつするかいつするかと見守っていたが、離陸かなりギリギリに、ハッと気づいて締めていたので私たちも安心して寝の体制に入ることができた。
伊丹空港で荷物を受け取り、これといった〆もなく解散。
そこからバスで新大阪へ向かい、山口へ帰る私と、ここから更にヒガシの用事で東京に向かうビキはそこで別れた。
もう箸を割ってくれる人はいないと思うととても寂しい。
電車の接続が悪く、帰りついたのは夜11時前。
大阪からの車中で、沖縄とのあまりの温度差にさっそく風邪をひいてしまった私に、翌日美幸ちゃんがシチューを作ってくれた。
私と共に沖縄を旅してきたあの北海道野菜たちがその材料である。
重くてもがんばって持って帰ってよかったと思えるおいしさであった。
いよいよさよなら沖縄である。
トイレでビキが鼻血をぶっ放し、心配したりしつつ飛行機に乗りこむ。
帰りは関空ではなく、伊丹空港行きである。
私たちの席はえぐっちゃんの真後ろ。
通路を挟んで斜め前がウタ(私とビキのhttsりょうちゃんの呼び名である。何でウタなのかはあえて秘すが)だった。
httsのメンバーが飛行機に乗りこんできて上の荷物入れに荷物を積んでいた。
楽器を入れようとしてスチュワーデスさんのほうが「楽器大丈夫ですか?」と心配していたが本人達は「大丈夫です」といたって平然としていた。
えぐっちゃんが荷物入れにいれずに持っていた大きめの箱をスチュワーデスさんが見て「そちらは壊れ物ですか?」ときくと、えぐっちゃんがあの笑顔で「あ・・・シーサーです」と答え、そこらに笑いがさざ波のように起こる。
私たちはウタがシートベルトをしてないことに注目し、いつするかいつするかと見守っていたが、離陸かなりギリギリに、ハッと気づいて締めていたので私たちも安心して寝の体制に入ることができた。
伊丹空港で荷物を受け取り、これといった〆もなく解散。
そこからバスで新大阪へ向かい、山口へ帰る私と、ここから更にヒガシの用事で東京に向かうビキはそこで別れた。
もう箸を割ってくれる人はいないと思うととても寂しい。
電車の接続が悪く、帰りついたのは夜11時前。
大阪からの車中で、沖縄とのあまりの温度差にさっそく風邪をひいてしまった私に、翌日美幸ちゃんがシチューを作ってくれた。
私と共に沖縄を旅してきたあの北海道野菜たちがその材料である。
重くてもがんばって持って帰ってよかったと思えるおいしさであった。
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